三枝博士
三枝博士のおしりクリニック
三枝クリニックについて
-三枝を「さいぐさ」と読む理由、三枝氏の歴史-
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 さいぐさは比較的珍しい名前と思います。「さえぐさ」、「みえ」「みつえだ」時には「さんし」と呼ばれることの方が多く逐一訂正を要するので辟易します。
  では、三枝という苗字の由来について簡単に述べておきます。
  我々の祖先は古く、大和朝廷時代に遡るのですが、三枝氏の始祖、三枝守国は九州で防人をして夷狄の侵略を防いだ功労が認められ天皇から姓を下賜されました。それが「三枝」姓です。なぜ「さいぐさ」と読むかというと「さいぐさ」は「さきくさ」に由来するのです。つまり「きKI」のKがとれて「Iい」となり、「く」が濁り「ぐ」なって「さきくさ⇒さいぐさ」に変化したのです。では「さきくさ」とは何でしょう。「さきくさ」は「咲き草」つまり百合の花のことです。では百合は何を意味するのでしょうか。百合は神武天皇の妃の象徴の花です。つまり恩賞として神武天皇の妃の象徴から姓を下賜されたのです。また、吉祥である「幸草=さいわいくさ、さきくさ(福草=ふくくさ、瑞草=みつくさ、も幸草に同じ吉祥)」が転じてさいぐさと読むようになり、幸草は三椏(みつまた)類で一つの茎から三つの枝を出すので「三枝」という漢字をあてたとの説もあります。ほかに、救世主的働きをした守国が榎の木の三股から生まれたからとの説もあります。三枝守国は平安時代の武将、西暦934年頃の話ですから一つには求められないようです。これで三枝は「さえぐさ」でなく「さいぐさ」であることが分かって頂けたでしょう。
  ではなぜ「さえぐさ」という苗字があるでしょうか。これは明治時代にあやかってつけたものと思われます。確かに「さえぐさ」の方が語感も良いですし、言いやすいです。
  時代は奈良に下り、三枝氏は今の山梨県に移り住み、土着の豪族となりました。ですから山梨県では誰でも知っている苗字です。三枝氏は武田信玄の武田氏よりも古く甲州にいたのですが室町末期に武田家の腹心となりいわゆる「武田二十四将」の一人となりました。それが三枝勘解由左衛門守友です。守友は長篠の戦で銃弾に斃れ戦死します。この時の鎧兜は血痕も生々しく保管されています。武田氏滅亡後、三枝氏は主に東京、伊豆方面に落ち延びます。ですから、三枝姓は東京、伊豆方面にも見られます。守友の父虎吉は嫡男を失い悲嘆に暮れつつも武田氏のため藤枝の田中城の攻防戦で奮戦していたので、家康は「これは使える律義者」と見込み、落城後暫く信長の目の届かない寺に隠し、本能寺の変の後に徳川配下に組込みます。まるで変を予見していたかの様です。ここが家康の真骨頂、殺してしまう信長よりやはり一枚上手です。家光時代に三枝守恵は家光の弟、駿河大納言忠長(春日局の陰謀で切腹、守恵も殉死、春日の局は明智光秀の家臣斉藤氏の娘)とともに駿府に赴任します。今の静岡赤十字病院の所に屋敷がありました。三枝氏は江戸時代中に幕閣として徳川家を支えましたが、明治維新とともに録を失い没落します。明治維新後、薩長は政権の中枢を藩閥で独占し、財界と癒着し汚職にまみれ、挙句に日本を悲惨な戦争に導きました。今日の日本の官尊民卑思想、官僚の天下り、お手盛り政治、大企業優先、増税庶民イジメは明治維新の失敗が根源です。権力は常に腐敗するとはよく言ったものです。